今月のことば (2015年9月)
子曰わく、回や其の心三月仁に違わず。
其の餘は日に月に至るのみ。(雍也第六) 
子曰、回也其心三月不違仁。其餘則日月至焉而已矣。
(雍也第六・仮名論語六八頁)
 
 
(注釈)顔回は立派な男だ。常に己を磨き、修養に励み、仁の道に違うことがない。しかし、その他の門人たちは、なかなかそうは続く者はおらず、せいぜい一日か二日、長くとも一ヶ月もその努力が続けばいいほうである。

 洵に耳の痛い話である。いいことはわかっていても、それを続けて実践することは難しい。言うは易し、行うは難しである。
 筆者の住まう町内に小さな氏神さまが祀られているが、境内はいつお参りしてもきれいに掃かれ、落ち葉もほとんど見当たらない。こんもりと森に囲まれているのにである。聞くところに由ると、近所に住む一老女が、毎朝、時には夕刻にも掃いてくださっているとのこと。おかげでお参りするといつも清浄心を覚える。町内では月に一?二回、日を決めてみんなで清掃をしているが、なに分木に覆われた森の中とて、掃いたあとからあとから落ち葉は絶えない。それを倦むことなく、来る日もくる日も清掃を続けて下さる方のいることの有難さを思わずにいられない。
 素読の効用は論を俟たない。これも時どきなどではあまり効果はない。
 やはり習慣付けることが肝要である。そこで朝神佛にお参りするのに合わせ佛前でお経を唱えて後に続けて論語一篇、古典手抄の数章を読むことにしている。最近は旅行に行くにもポケット版をカバンに入れ、旅館で朝唱えることにしている。
 不思議なものでこんな習慣が身についてくると、道を歩いていても路傍の一木一花一草に対してまでそれを〝育む"という見方をするようになってきた。
 仁とは〝萬物を生成化育して已まぬ心”と云われるが、しかし全てが順調に育ってくれるものとは限らない。どれだけ愛情を注ぎ、どれだけ努力しても思うように育ってくれないものもある。その時は寂寥の念を覚える。これが慈悲の心であろう。
 孔子・釈迦・キリストの三聖人が説く〝仁"〝慈悲"〝愛"はこう見てくれば一つのことを説いているのである。

論語普及会会長 村下 好伴

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