今月のことば (2014年7月)
子曰わく、學は及ばざるが如くするも、猶之を失わんことを恐る。
(泰伯第八)
子日、學如不及、猶恐失之。
(泰伯第八 仮名論語一〇六)
〔注釈〕學問は追いかけても、追いかけても追いつくことができないもどかしさを覚えつつ學ぶが、それでも猶その心を見失いはせぬかと恐れる。
 げにも學問とは、學べば學ぶほど益々底知れぬ深さと、果てなき無限の広がりを痛感してやまない。ことばは悪いが底なし沼の底をさぐるような感さえする。
 孔子も自らを〝學を好む者?と表現し〝學を究める者"とは言わない。但し〝好む者?としての自覚は〝丘(孔子の名)の學を好む如かず"と云って、好學の士としては誰にも引けを取らぬぞと大見榮を切っている。
 禮記中の學記に〝學びて然る後に(己の)足らざるを知る"とあるが、學ばなければ、自分の至らなささえ気付けないのである。
 人生長生きをしてもせいぜい百年、その間にどれほどのことを知り得ようか、そのことを自覚すればするほど、今の一瞬をいかに確りと 取すべき掛替えなき時たるかを覚える。しかも學びて之を行わねばならぬ、行うには習わねばならぬ、習うの字は一つのことが身に染み着くまで、ひな鳥が親の飛ぶ姿を真似て羽をバタつかせるように、何度も何度も同じことをくり返す姿を現わしている。そしてやがて無意識の中に行動に現われて初めて習得したことになる。
 學ぶとは所詮先人の跡をば、〝その善き者を擇びて之に從い、其の善からざる者にして之を改め"て行くことのくり返しである。

論語普及会会長 村下 好伴

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