今月のことば (2011年9月)
子曰わく、歳寒くして、然る後に松柏の彫むに後るるを知るなり。(子罕第九)

(注釈)春から夏にかけて青々と茂っていた木々も、寒い冬を迎えると、多くの木が葉を落し枝や幹だけの裸木となるが、そんな中にあっても松や柏は常緑樹で色を変えず青々とそそり立っているのを見受けるものだ。このように人間も苦難に遭遇しても変節することなく、平常心を失わないようにしたいものだ。
平常心之れ道


久々の全国孔子聖廟巡拝会に参加した。

筆者はこれまでこの行事を担当し、お世話させていただいていたが、常任理事の宮武氏が後を引き受けてくださることになり、バトンタッチしたので、これからは一参加者として旅を樂しませていただく身分になった。開催の都度ご参加いただき、ご協力いただいた皆さんに心より感謝の意を表する者である。

この度は土佐南学の学源、その人と行跡を訪ねるのが主目的であったが、土佐といえば学監の伊與田先生生誕の地、なんとしてもその故郷を訪ねたかった。幼少の頃、ご母堂が亡くなられて、毎日泣き悲しんでいたのを、叔父から進められた論語の素読によって寂しさを紛らわし、やがてその声が下の民家にまで届いたという、その生家の位置を是非この眼で確かめたいと思っていたこと。もう一つは、召集で軍隊に居られた時、終戦を迎えて軍旗を焼却し、その遺灰を太平洋を一望する数百米の山頂に埋め、海岸に在った二百キロほどの自然石に「神洲不滅」と刻み、頂上へ担ぎ上げて、埋めた遺灰の上に建立された、その石碑を見極めること。この二つは長年の宿願であったが今回遂に果し得た。

思い返せば昭和二十年(西紀千九百四十五年)八月十五日正午、じりじりと焼けつく炎天の下で天皇陛下(昭和天皇)の玉音(肉声)放送を聞き、思いもよらぬ終戦を知らされた。それまで『撃ちてし已まん』とか『鬼畜米英』などと、ことある毎に敵愾心を掻き立て、大都会はほとんど灰盡と化した状態であったが、それでも尚国民は敗けるとは思わず、いよいよ本土決戦か?との腹を決めかけていた。そんな中での玉音放送。筆者はその時中学生であったが、大人たち、特に先生方の落胆と狼狽振りが見てとれ、米軍が上陸したらどんな目に合わされるだろうと不安と恐怖に戦いていたものだった。そんな状況下に敢えて戦前教育で常に聞かされ、誰もが口遊んでいた言葉を選んで、刻み、山中とはいえ敢えて太平洋(アメリカ)の方に向け建立したこの胆力、これこそ我らにとって何よりも無言の垂訓であり、不盡の活学である。この碑を見て、昭和天皇の終戦時に歌われた御製を思い出した。

『降りつもる深雪に耐えて色かへぬ松ぞ
おほしき人もかくあれ』

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