今月のことば (2011年4月)
葉公、孔子を子路に問う。子路對えず。子曰わく、女奚ぞ曰わざる、其の人と爲りや、憤を發しては食を忘れ、樂しんでは以て憂を忘れ、老の將に至らんとするを知らざるのみと。(述而第七)

〔注釈〕葉公(楚国葉県の長官)が孔子のお人柄について弟子の子路に対してどんなお人ですかと尋ねられたが、子路は旨く表現できず答えにつまってしまった。その様子を後で聞いた孔子は、「お前どうしてわしのことをこのように言ってくれなかったのだ。学問が好きで、難解な所にあたると解ろうと夢中になり没頭して食事をするさえ忘れてしまい、会得できた時は心から楽しみ喜んで他の心配ごとなどみな忘れてしまう。そして老がそこまで来ていることも忘れて眼中にないようです」と。
両 忘

洗心講座で二月から伊與田先生の『老子』の講義が始まった。九十五老翁のご講義で、すでに傘寿を越えた筆者も高齢化社会に生かされたお陰で、老人が老先生から「老子」の講義を受ける希有の幸せな機を賜り、わくわくしながら至福の時を味わっている。特に親しかった同学の益友たち幾人かはすでに鬼籍へと先立っており、生き残って長生きの余徳にどっぷり浸らしていただいている。

長生きと言えば日本は今、全人類が開闢以来希求して已まなかった超長寿時代を迎えており、百歳以上の老者が三万を超えるとか、つまり人類の夢が遂に叶えられた時代に遭遇したのである。この長寿社会達成の原因は色々有るが、第一に六十数年来戦争の無い平和を享受出来た有難さである。この平和によって、争いによる大量殺戮も止み、やがて食糧が豊かになり、産業の飛躍的発達を見て凡ゆる物資が豊富となり、それに伴って医療の技術進化、医薬品の発明発見増産など、これらが総合して作用し、今日の長寿社会を招来したことは確かである。しかしこれは目で確かめられる形而下の現象であり、これだけで我々は幸せであろうか。否半面の心スピリットの世界、形而上に於いては半比例して、人情は薄まり、何ごとも金銭万能的思考が広がり、自分の欲望さえ満たし得れば他人がどうあろうと顧みない利己一点張りの人種が激増して寂寥至らざるなき現状である。この荒寥たる閉塞社会を打破するエネルギーはいずこに有りや。これこそ益々増加の一途を辿っている我々後期高齢者が、年を忘れて孔子の晩年のように発奮興起すべき時ではなかろうか。しかも孔子は七十三(一説に七十四)歳でこの世を去ったが、してみれば後期高齢者とは七十五歳以上であり、孔子も知り得なかった未知の人生経験を積み重ねているわけである。なるほど肉体は衰えたりとも、一方で貴重な経験に裏打ちされた長生きした者だけに湧き出ずる、老練、老熟な英智の泉が有る。この貴重な聖泉水をどんどん湧き出して、終戦以来日本に溜まり滞った占領政策という汚水穢土を洗い流そうではないか。

現政権を見るかぎり、完全にこの汚水穢土に汚染されきっているように見受ける。また塾さざる生くさい果実の如き政策を打ち出す。加えて孔子が最も嫌がった巧言令色で汗をかかずに飯を食ってきたマスコミや弁護士に日教組出などが多い。これでは国は持たぬ。さすがに国民も余りのお粗末に気づいて来たようで人心は離反してしまって末期的症状を呈している。次期政権には議員定年制など、馬鹿なことは即刻廃し、有能な老者は百歳でも任用する度量を持って人選すべきである。

孝という字は老と子を合体させた字で老若が一体となるを意味する。老若が一体となればそのパワーたるや一+一=二に非ず。=三も五も七もの力を発揮する。それが家族制度で培われた以前の日本のパワーであり、明治維新もこのパワーで成就させたといわれる。

筆者も徒らに馬齢を重ねしを嘆くに止まらず、老熟年・新一年生となって「老子」を学び、老練に励む所存である。

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