今月のことば (2010年11月)
曽子曰わく、終を慎み遠きを追えば、民の徳厚きに歸す。(学而第一)

〔注釈〕民衆の上に立って政治を行う者は、自分の親が死んだらその葬儀を誠心誠意手厚く葬り、又法事など先祖祭りをば人情の誠を尽して鄭重に執り行えば、人民は自然感化されて、人情風俗が敦厚(手厚く)になり、良風美俗の社会風潮が醸成されてゆくものだ。
先祖を祭る

お彼岸に墓参りをしたが、多くの若夫婦や家族連れの参拝者を見かけ、ほほ笑ましく、何かほっとした感じを受けた。

親の子殺し、子の親殺し、果ては親の死亡届も出さず、何年も死体を放置し白骨化した話等聞くに耐えない見たくもない絶望感をさえいだかされる連日報道渦巻くなかで、墓地の風景はなんとも心が和まされた。日本もまだ捨てたものでないと。

安岡大師は「若夫婦が自発的に先祖の祭をする風俗があれば、その国、その郷土、その家庭は確かだ。これに反するを薄俗と言い、必ず享樂的になって当てにならぬ」と断じておられる。筆者の子供がまだ小学生のころ、担任の教師が家庭訪問でわが家にも来られた時、玄関から見える所に祭ってある神棚を見て、「神さんや佛さんを祭っておられる家のお子さんは学校での態度がいいです、違いますよ」と言われたのが、とても印象的だったことを思い出す。敗戦による占領政策によって、彼らが最も恐れた家族制度を崩壊させんとして、自由という美名を旗印にして憲法をはじめ法の改悪、慣習の破壊、民族の縦の繋りを絶たんとするあらゆる法策が講ぜられ、それを唯々諾々と受け入れ、昭和二十七年に講和条約が発効しても、新たな憲法をも作らず占領憲法のまま放置して今日に至っているが、今や国の指導階級たる政治家たちまでがその政策に多分に毒され汚染されているやに見受けられる。中でも最も顕著なものが、遂に全閣僚の八月十五日靖国神社不参拝というような日本政府と言えない異常な事態となってしまった。それに対する国民の反応も低調で、ほとんど非難の声が聞かれない。上が軽んずれば民の不徳ここまで至れるかの感がする。なんともやるせない限りだ。

これも占領政策の為せるわざ、靖国神社まで一宗教法人にしてしまった結果である。一体、国のために尊い命を捧げた者の霊を鄭重に慰霊せぬ国家が世界の何處に在りや。別の所で別の方式で慰霊していると云うかも知れない。その考えが抑々外形は日本人でも、精神的に空虚な日本人である。日本民族は古来より天皇家を中心に、先祖をはじめ天神地祗一切を神道によってお祭りして来た。皇室は厳然として宮中三殿において神道方式で祭祀されている。例え国が敗れても精神の真柱は皇室によって保持されてきた。しかも世界の何處にも例を見ない歴史を誇る、その支柱としてである。又大多数の国民は、普段はまるで唯物主義者のように物や金に溺れ、無神論者のように振舞い、享楽にふけっていても、正月にはほとんどがどこかの神社に初詣でをし、人生の節目節目の冠婚葬祭、入試入社などは大体神社にお詣りする。これこそ日本人のDNAの為せるわざである。一部の外国に遠慮して靖国神社に参拝しない政治家など日本民族の心情を逆撫でする者であり、天皇を中心にした日本国体そのものを否定する者たちである。確固たる民族の支柱を見失った者たちに政治を任せていたのでは、我が国の明日は無い。尖閣諸島や北方四島、竹島問題等文字通り四海波高しである。

日本国民よ、素直に自己のDNAのささやきに耳を傾け、本来の日本人に戻って国を正して行こうではないか。そのために先ずわが国の歴史を振り返り、先祖を鄭重に敬い祭り、子孫に日本人らしい祭祀を受け継がせて逝こうではないか。外国から侮られぬために。

Copyright:(C) 2012 Rongo-Fukyukai. All Rights Reserved.