今月のことば (2010年5月) |
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子、匡に畏す。曰わく、文王既に没したれども、文茲に在らずや。天の将に斯の文を喪ぼさんとするや、後死の者、斯の文に與るを得ざるなり。天の未だ斯の文を喪ぼさざるや、匡人其れ予を如何にせん。(子罕第九)
〔注釈〕孔子が匡(という所)で大難にあい、殺されそうになった時、孔子は落ち着きはらって次の如く言った。聖人の道は周の文王によって盛大を極めたが、その文王はすでに亡くなって居ない。文王亡き後の文明の道の伝統は、この私の身に伝わっていないだろうか。もし天の神がこの伝統文明を滅亡させるつもりなら、文王の後に生まれたこの私は、文王の作った文明の道を学び得なかったであろう。しかし幸いにも、私は文王の教を学びその道を体得している。もし天の神がこの伝統文明を滅ぼさないつもりならば、文明修得者の私を天の神がきっとお守り下さるだろう。天の加護を得た私を、匡人如きが一体どうしようぞ。断じて指一本ふれることはできない。
(明治書院新釈漢文大系論語・吉田賢抗訳) |
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昭和天皇をお偲びする
四月二十九日は"昭和の日"。実はこの章を読むたびに昭和聖帝の終戦前後のことに思いが馳せる。
「自分はいかになろうとも万民の生命を助けたい」。終戦前夜の御前会議で、徹底抗戦か、ポツダム宣言受諾かの議決がとれず、遂に天皇陛下の御聖断を仰いだ時の天皇のおことばである。文字どおり万民を救わんために、御身を投げ出されての悲壮な御決意であった。洵に畏れ多き表現であるが、絶体絶命の危機に際してこそ、その人の神髄を見る。
身を殺して仁を成されたのである。
「少しでも種子が残りさえすれば、更にまた復興という光明も考えられる」と仰せられ、戦後の我が国の歩みはそのとおりになった。
"国がらをたゞ守らんといばら道 すすみゆくともいくさとめけり"
この御宸衷こそ孔子が匡で述べた、「天の未だ斯の文を喪ぼさざるや、匡人それ予を如何にせん」に一致する。
やがてこの大御心は、占領軍総司令長官マッカーサーの心を射止めることになる。十年後に出たマッカーサー元帥の「回想録」によって、その時の模様が明らかにされている。
天皇のお言葉「私は国民が戦争の遂行にあたって、政治軍事両面で行ったすべての決定と行動とに対する全責任を負うものとして、私自身をあなたの代表する諸国の裁決にゆだねるためにおたずねした」。
御訪問を受けた時、出迎えにも出ず握手も拒否したマッカーサー元帥が、このお言葉を聞いて思わず襟を正した。その時の感動的心境を次のように告白している。
マッカーサー元帥「私は大きい感動にゆさぶられた。死を伴うほどの責任、それも私の知り尽くしている諸事実に照らして、明らかに天皇に帰すべきでない責任を引き受けようとする。この勇気に満ちた態度は、私の骨の髄までゆり動かした。私はその瞬間、私の前にいる天皇が、個人の資格においても、日本最上の紳士であることを感じとった」。(西山徳著「天皇を仰ぐ」より)
至誠にして動かざる者未だこれ有らざるなり。あわや民族滅亡か?の瀬戸際を、仁もってお救いしたもうたのである。
君は民をわが子として慈しまれ、民は君を父母のごとく慕い仰ぐ。日本とはこんな国がらなのである。この国柄無くしてどうして肇国以来数千年に亘り一君元首が存続し得ようや。この国がらに対する認識が浅く、ともすれば皇室を軽視しがちな者どもが施政の中枢を握る現政権を見るにつけ、深く憂うる者である。日本人よ目醒めよ、皇室あってこそ、天地と窮り無き日本で在り続けるであろうことを。
民族の本ついのちのふるさとへ はやはやかへれ戦後日本よ 影山正治
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