今月のことば (2010年4月)
子曰わく、後生畏るべし。焉んぞ來者の今に如かざるを知らんや。(子罕第九)

〔注釈〕孔子言う。自分達より後に生まれてくる者(少青年)の中から今の我々よりもっと秀れた人物が出ないと誰が言えようか。後輩達を畏れつつ期待しようではないか。
日本精神の種を蒔こう。

『子曰わく、學びて時に之を習う・・・・・・。』
園児たちの大きな素読の声が、幼稚園の内外へ響きわたる。大人が読む仮名論語を与えられ、読み覚えて行くことに一種の誇りと自覚を抱いて学ぶ。その真剣なことは児らの炯々たる眼光に表れている。運動会には、漢字組み立て競争があるが、次々に組み立てられる俳句や諺に父兄は感心しつつ見つめる。父兄参観日に行う論語教室の光景を目の当たりにし、生まれてまだ四〜五年の我が児の余りに早い生長ぶりに目を丸くして感激する。こんな小さい児になんで漢字なの、なんで論語なの、と大人たちは訝るが、百聞は一見に如かず。なるほどと段々その重要性に納得し、当会が各地で開く教室へ、母子手を携えて参学する家族も見られる。人間はこの頃にどんな環境で、何を見、何を聞き、何に触れるか。またこの頃の知識欲は凄まじいもので、どんどん良いもの、正しいもの、特に本ものを与えることにより、大体その児の一生が決定付けられると申して過言でない。

徳川時代が文教政策に熱心であったのは周知の通りである。寺小屋や私塾・藩校・郷校と凡ゆる機会を通じて子弟の教育が施された。主に読み・書き・そろばんと基礎を重視し、特に読む方では古典の素読が幼少から行われ、その成果は幕末の頃の識字率が九十%ぐらいに達していたといわれる。これらの教育の積み重ねこそ世界中が瞠目した『明治維新』を成し遂げる原動力であったことは言うまでもない。明治時代は欧米の先進ぶりに目を奪われ、なにもかも欧米に見倣えとひたすら欧米を鑑として爆進した。それでもまだ江戸時代の蓄積余力によって明治の気骨と呼ばれる人物が多く排出された。

最近致知出版社から発行された『脳は論語が好きだった』という本がある。著者は最先端を行く脳外科医の篠浦伸禎というまだ五十歳代の新進気鋭の医者である。詳しくは著書を読んでいただきたいが、氏は脳の各々の働く役割の異なる部位の活性化に、論語のことばが大きく作用することを例証を挙げて述べておられる。このように、歴史が示す例証と、近代医学が解明する例証が完全に一致する。しかしこれも考えてみれば当然である。そうでなくして二千五百年からの時を超えて読み継がれる筈がないではないか。只この論語この人間学、速効ではない、二十年、三十年から五十年先を目指して学ばねば目に見える効能は現れない。その点せっかちな現代人に疎まれる所以である。

  一年の計は穀を樹るに越したことはない。
  十年の計は木を樹るに越したことはない。
  百年の計は人を樹るに越したことはない。


今年また百数十名の園児が園を巣立ってゆく。ここ数年論語の時間を受け持って来て、早や千名を超える論語健児を送り出したことになる。この児らには単に論語や漢字の修得に止まらず、日本人に生まれた喜び・誇り・自信、この国を愛する心を育んで来たつもりである。三十年、五十年、百年後の名宰相現出を夢見つつ・・・。

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