今月のことば (2009年9月)
子曰わく、君子は器ならず。(爲政第二)
漢字は人の心を磨く 「珠」

昭和六年生まれの筆者は中學二年まで戦前戦中の教育を受けて育った。戦後は占領政策と相俟って、漢字制限や旧假名づかいの廃止、文語体の排斥等、日本人自らが自国語表記に大改革を加えてきた。その両教育を半々に受けて育った筆者にとって、振り返ってみて『あ丶得な人生だった』とこの年になってつくづく感じる。なにしろ今は使えない使わない相当数の漢字を、しかも画数の多い正漢字を、幼少年期ごく自然に習得できた。新旧假名づかいも両方使うことが出来るし、文語文もあまり苦にならない。『雀百まで踊り忘れず』で実際幼少期に覚えたものは、この年になっても頭に、いや體に、心に染みついていて、いつでも取り出して使える。凡庸の身ながら、いろいろの時代を経験することができて、それなりに自由で融通の効く幅廣い人生を送らせてもらったなあーと思っている。

こう云った自己の経験から戦後の日本社会を見ると、なにかにつけて余りにも細分化、専門化し、それを法制化してしまおうとする。つまり人間をある一定の器に嵌めよう嵌めようとした六十数年ではなかったかと思えてならぬ。漢字もその一つだ。二千年来愛用し育んで来たものを『常用漢字』なるものを制定し枠に嵌めて、何千字という漢字を自由に使えなくしてしまった。その結果本来日本人の豊かな精神性や表現力を自ら狭小化し、貧弱化してきてしまった。人間の知識欲は無限であり、その証拠に漢字検定などには数百万の受験者が群がるではないか。最近テレビのクイズ番組なんかもやたら漢字のクイズが放映されている。若者がパソコンで簡単に検索するようになったが、そのパソコンには一万字から入力されておるのに、学校で習う漢字の数は千四百字あまり。このギャップはどういうことか。何かで聴いたが、「機器(パソコン)が許容する漢字を読めない、使えないと云うことは機械を作った人間の敗北であり、人間進化のストップを意味する」とまで極論していた。表音文字と違い一字一字に深い意味と哲理を有する漢字の魅力を漸く世間が認識し始めた。もうこの潮流は誰にも止められぬであろう。もの書き小説家はさすがにこの問題に敏感で、早くから漢字の自由使用自由裁量を提唱している。当局は常用漢字などという固苦しい枠を取り外し、一刻も早く個人の自由意志でどんな字でも自由に使用出来るようにすべきである。もう本家中国でも台湾が正漢字を使用しているのを見て簡体字を見直しつつあるという。韓国でも同様に識者の間で漢字の復活を考える人が出てきているそうだ。

昭和二十二年の学習指導要領には「中学の国語教育は古典の教育から解放されなくてはならない」とあったそうである。明らかに若人から日本精神の根っ子を切り離そうとの意図がうかがえる。遅ればせながら、安倍元首相が教育基本法の改正を断行した。それに基づく改訂指導要領には「伝統的な言語文化の指導」の一項が入り、五、六年で古文・漢文・近代文語分の導入が明記されたと言う。戦後レジームの払拭のスタート台に着いた思いだ。

教育は元来「大器」出来れば「不器」の人材養成こそ最終目標と云えるのではないか。そのためにあまり区々として重箱の隅っこをつつくような制度改革や教育改革は望ましくない。教育者こそゆったりとありたいものだ。

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