今月のことば (2009年5月) |
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子曰わく、後生畏るべし。焉んぞ来者の今に如かざるを知らんや。(子罕第九) |
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百年後を目指して
三月、二年間に亘り、みっちり論語の素読を修得した塚本幼稚園の七十数名の園児たちが巣立って行った。入園した時はお母さんと離れるのが不安で泣きわめいていた児、口移しで真似る論語がまともに発声出来ず、たどたどしい赤ちゃんことばで読む児など、当時の光景が甦る。卒園式で急速に成長したこの児らの凛々しい姿に舌を巻いてしまった。「どうか日本を背負って立つ児に」とうしろ姿に手を合わせつつ祈った。
昨秋の公開講座は加地先生にお出で願ったが、そのお話の中で「最近私が楽しみにしていることは、広島に居る孫に、テレビ電話を通じて毎朝十分間論語の素読を教えていることだ」と述べておられた。そして三月二十九日、産経新聞オピニオン欄に先生の記事「教員は幼稚園に学べ」の中で、「ジジ馬鹿丸出しで孫の卒園式に出席した(多分お話にあったお孫さんであろう、広島へ行かれたのだ)。在園児の送辞、卒園児の答辞に眼頭が熱くなり、唱歌「思い出のアルバム」合唱で『いつのことだか思い出してごらん、あんなこと、こんなこと、あったでしょ・・・もうすぐみんな一年生』に涙があふれた」と述べておられる。平素歯に衣着せず快刀乱麻で世評を撫で切りしておられる先生の意外な一面にほほ笑んでしまった。
銀も金も玉も何せむに勝れる宝 子に如かめやも 山上憶良
太宰春臺の「産語」中に、衛の国の君主が蒲という処を通った時、一老人がハーハー息せきながらせっせと松の苗木を植えているのに出遇い、「爺さん、年はいくつかね」「八十五歳でございます」すると君主はカラカラと笑い「無駄な骨折りは止しなさい。あんたの生きているうちには用材にならんだろう」。すると、老人植える手をやめ、君主に「一国の君主のお言葉とは思えません。木が用を為すには百年を要します。もう私は老いて死期も近づいておりますが、只管子孫のためを思うて植えずにおれないのです」と。君主は大いに慙じて「私は過っていた。爺さんの今の言葉を師と仰ぎ忘れないでおこう」と。
一年の計は穀を樹うるに如くはなし。
十年の計は木を樹うるに如くはなし。
終身の計は人を樹うるに如くはなし。 三樹・管子
加地先生は記事中で、『幼稚園には教育の原点がある。いや人生の原点がある』と強調しておられるが、数年来幼稚園で論語と漢字教育に携わってきてつくづくこの言葉が実感として響く。純真無垢で何にでも染まるこの時期に、どんな親で、どんな家庭で、どんな環境の中で、どんな教育を受けるかによって、大体その子のその後の人生が決定づけられると言っても過言ではない。まだ小さいからと侮り、幼稚なものばかり与えるのは、折角伸びようと意欲に燃えている子の芽を踏みつけることになる。
故石井勲先生が、大学から高校へ、中学へ、小学へ、そして遂に幼稚園へと教の対象年齢を下げて行かれ、最後に幼児漢字教育に心血を注がれるようになったのは一にここにある。質屋に丁稚に入った者を品物の真偽価値判断の出来る目利きに育てるには本物ばかりを見せて鍛えるのだそうだが、幼児教育も全く同じで、幼稚だからと質を落としたり、イミテーションを与えてはならない。本物をばいかに子供に分かり易くして、根気よく与える努力をすることこそが本物の教育者である。
塚本幼稚園では、全て本物を与え、園長以下全教師が一丸となって本物教育に取り組んでいる。
五十年後百年後の総理大臣出現を夢見つつ。 |
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