今月のことば (2008年11月)
子曰わく、君子は食飽くを求むること無く、居安きを求むること無し。(学而第一)
不撓不屈の人づくりを

幕末明治維新の俊傑・春日潜庵先生が京都で営んだ塾の塾規に次の一句が挿入されている。

  
衣は體を蔽うを取り、
  食は腹を満すを取る。
  願はくは飽食暖衣、逸居して教無きに
  至らざらん。


前記の論語の句に附合する。
今年は中江藤樹先生生誕四百年の記念すべき年に当るので、本会も春以来の諸行事を藤樹精神の研鑽に絞り企画し、その一つ孔子聖廟巡拝会では、藤樹書院の常省祭に合わせ、近江の聖賢たちの遺跡を巡って来た。

杉浦重剛先生旧宅趾
昭和天皇皇后両陛下に十年間倫理の御進講を担当された杉浦重剛先生の生家が大津の膳所に保存されている。実にこじんまりとした小宅で、貧に耐えつつ苦学された先生の面影が浮かびくる。この家にまつわる先生の逸話に「雨が降ってきたら家中にたらいを置いて廻ったものじゃ、雨が降ったらたらいを出すものだと思っておった。」衣服も着たきり雀よろしく何年も着古し、弊れた穴から下着が引きずり出せるほどで「杉浦の服」と呼んで有名だった由、よそ行きの服が一着しか無く兄と共用していたとか。そんな先生が教育者としての抱負は、「私は日本を世界第一流の国にすることをつとめとしている。」 大見識である。

熊澤蕃山先生勉学の跡
湖東近江八幡桐原の竹薮の中に『蕃山先生勉学處』と書かれた大きな石碑がポツンと建っている。二十過ぎてから、それまで専ら武を重んじて励んでいた蕃山が、文に目ざめ、岡山藩を辞して浪人となり、母の故里であり父母が住む桐原に帰り、一家極貧の暮らしに甘んじながら学問に没頭した所である。中江藤樹の風聞を知って訪い、頑強に断られても屈せず、遂に許されて入門した有名な話もこの頃のことである。死を決しての学求と云える。六年間の貧窮生活のようすを、蕃山は次のように述懐している。「牢人の間、五六年は、江州下民の食、ゆりこぞうすいというものを食し、ぬかみそを菜にして、汁肴酒茶なく、清水紙子もめんぬのこにて寒をふせぎ」ながらも「衣食共に昔(岡山藩に奉職の頃)を忘れて書を樂しみいたり」。

近年私立の小学校がホテルなみの豪華な校舎を建て、贅の限りを尽くした中で子供を教育することが流行っている。日本国は永遠に今の経済大国で有り続けるとでも思っているのか。資源小国の日本など、なにかの拍子に外国から資源が入らなくなったら一たまりもなく瓦解してしまうだろう。また最近学校へ銀行員を招いて金融の仕組、株取引の知識などを教える学校が増えて来ておるそうだ。これも堀えもんのような守銭奴を養成して、限りなき欲望をかり立てようと言うのか。

どう見ても教育理念が根底から崩壊しつつある。百年の計は人を樹うるにしくはなし。百年先を見通して、なにがおきても屈せぬ心身の強健な人づくりこそ真の教育であろう。

それには蕃山先生や杉浦先生のように、若き頃ほど忍耐や克己、そして人を思う公の心を植え付けねばならない。

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