今月のことば (2008年4月)
君子は食を終るの間も、仁に違うこと無く、造次にも必ず是に於てし、顛沛にも必ず是に於てす。(里仁第四)
四月二十九日は昭和の日

[注釈〕
君子は食事をする短い間も行が仁に違うことが無く、とっさの場合や、危急存亡の時であっても、仁の道に則り行動するものだ。

四月二十九日は『昭和天皇の日』である。
昭和初期に生まれ、昭和の御代に苦楽を嘗めた者にとって、この日は一入感慨深い。
ともあれこの日が昭和の日と定ったことは、落ち着くべき所へ落ち着いた感がして喜ばしい。只こんなこと一つ決めるにも議論百出右往左往し、なかなか決まらなかった事態に、改めて敗戦による民族精神衰退の悲哀を痛感させられる。

私の手もとに、昭和天皇崩御あそばされて後に、産経新聞に「天皇の昭和」と題して作家三浦朱門氏が綴った記事の切り抜きがあるが、その中に迫水書記官長が、ポツダム宣言受諾の御聖断をお下しになる御前会議の模様と、陛下のお言葉を追懐しつつ述べた文が記されている。文字通り惻々として悌涙措かざるものである。

「自分はいかになろうとも万民の生命を助けたい。此の上戦争を続けては結局我が邦が全く焦土となり、万民にこれ以上の苦悩を嘗めさせることは私としては実に忍び難い。祖宗の霊にお応えが出来ない
―中略―
日本が全く無くなるという結果に比べて、少しでも種子が残りさえすれば、更に又復興と云う光明も考えられる―中略―この際堪え難きを堪え、忍び難きを忍び一致協力、将来の回復に立ち直りたいと思う。」この御宸衷(陛下のみ心)は次の御製に端的にお詠みになっている。
 〇爆撃にたふれゆく民の上をおもひいくさとめけり身はいかならんとも。
 〇身はいかになるともいくさとどめけりただたふれゆく民をおもひて。
 〇国がら(日本の国体)をただ守らんといばら道すすみゆくともいくさとめけり。

陛下の御身のご安泰を願う大臣どもは、徹底抗戦や条件提示の上での受諾を主張したのに対し、「たとえ連合国が天皇の地位の保全を認めたとしても、国民が認めなければ何にもならないではないか」と。なんと御総明なお答え。君民一体でなければ、ご自分がお残りになる意味が無いと仰せなのである。このようにお話になりながら何度も白い手袋でお涙を拭っておられたとある。

陛下は「自分が憲法を逸脱して超法規的決断を下したのは生涯に二度、一つは二・二六事件の時、もう一つは終戦の時であった」とお述べになったそうである。このご決心無くして今日の国も民も無い。文字通り造次顛沛時の仁による御聖断であったのだ。

以来灰燼の中に打ちひしがれて呆然とした国民を復興に向け志気の鼓舞に立ち上がられ、全国を御巡行になり、民を慰撫して廻られた。その時折おりにお詠みの御製を拝してみると、

着のみ着のまま外地から引き揚げ、荒れ地を耕してたつきを得ようとする農民を見られ、
 〇かくのごと荒野が原に鋤をとる引揚人をわれはわすれじ。(昭和二十四年)

三井三池炭坑では坑内服をお召しになり、ヘルメットを被って海底の坑内へお入りになり、
 〇海の底のつらきにたへて炭をほるといそしむ人ぞ尊とかりける。(昭和二十四年)

旧ソ連に抑留された人々の上を思われてか…、
 〇風さむき霜夜の月を見てぞ思ふかへらぬ人のいかにあるかと。(昭和二十三年)

天皇御歳二十二の時、以後の国を治めす世に思いを馳せられて、
 〇世の中もかくあらまほしおだやかに朝にほへるおおうみのはら。(大正十一年)

このお歌に籠められたみ心とはうらはらに、未曽有の国難にお遇いなされたのである。

二十九日は御聖徳を偲び静かに追遠の誠をささげたい。

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