今月のことば (2007年10月)
言を知らざれば、以て人を知ること無きなり。(堯曰第20・仮名論語313頁)

〔注釈〕街を歩くと商店街の看板に益々横文字が多く、シャッターが降りていると看板だけでは何の店か判別できないのが目立ち、オール横文字なるものもちょくちょく見かける。一体どこの国の人を相手に商売しているのか。果たして何割の人が理解しているのだろうか、店の人たちはまともに日本語で応待できているのだろうか?も早や欧米の植民地と化している。
フランスのシオランという人は「祖国とは国語だ」と断言したそうだ。フランス人は世界で一番美しい言葉を持つ国として自負と誇りを持っている。取ったり取られたり、何十回も国境線が変わるような戦争の歴史を繰り返しながら、厳然としてフランスであり続けたのは自国の言葉を愛する国民なればこそである。

「一国を滅ぼすのに武力は要らぬ、教育さえ崩壊させれば後は自然に自壊してゆく」。敗戦後の占領政策ではこのことを実に巧妙に実施し、日本語を蹂躙した。それに日本人で学者政治家などが占領政策に加担し、漢字制限や新かな遣いを奨励し推進を容易ならしめた。

遅きに失した感はいなめないが、中教審、文科省がやっとゆとり教育を見直し、小学校六年間で三百五十時間、中学校三年間で二百時間授業を増やし、主要教科の国語・算数に当てる方針を打ち出したことは喜ばしい。昔から教育の基本は「読み・書き・そろばん」と決まっていた。自国語がまともに読めぬ、書けぬ、語れぬ国民を養成してなんの教育ぞ。幼少年から自国語を減らして英語を教えようとする功利的浅薄な親や教師が増えている。主客転倒とはこのことである。

英語や数学が良く出来る子は必ず先ず国語の成績の良い子であることを知らねばならぬ。戦前小学校へ入ると国語の教科書を読み方と言って先ず読める子に育てることが最優先であった。それ以前、江戸時代などは、漢文の素読が幼少年の主要教科であった。この教育法がいかに秀れているかは現代医学がすでに究明している。東北大学医学部の研究で、朗唱・暗唱・漢字練習・計算などが大脳の前頭前野へ最も多く血が流れるそうである。

T幼稚園・S幼稚園で伊與田学監浄写の仮名論語を与えて素読に励んでいるが、子供はみんな天才である。早いこと覚え、リズムを楽しんでいる。読んでいるうちに目から漢字を覚え、一字一字の蔵しておる深く限りない意味・哲理を自然と直感しているようであり、目の光が変わり落ち着きがそなわって来る。えらいものだ。日本人は昔からこのような教育法により、人間の根本精神、情操情緒を小さい時から育んだのである。「漢字は人間の霊魂を磨く珠玉である」と言われる所以である。

『国家の品格』の著者藤原正彦教授の体験談で、教授がアメリカの大学で数学を教えておられた時、その大学には教師にも生徒にもユダヤ人が多かったそうで、彼らはアメリカで生まれ育っておりながら「ヘブライ語」が出来るので、不思議に思い、ある日一人の生徒にどこで覚えるのか聞いてみたら、外では英語で話すが、家へ帰ると両親はヘブライ語で喋っていたとのこと。二千年前に祖国を追われ、世界を流浪していた者が再び建国することが出来たのは、その間遂に母国語を捨てることがなかったことによるのだ、と言っておられる。文字通り「祖国とは国語」であり、捨てた民族が滅んで行ったことは多くの歴史に明らかである。

「言を知らざれば以て人を知ること無きなり」真の国際人たるには、より正しくより多くの母国語を知る者ほど他国の人を知ることが出来るそうである。

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