今月のことば (2007年6月)
仮名論語の素読が世を洗濯する”見とりなされや、今に論語によって忙がしゅうてならん時期が来ますでなー ”
これは且って成人教学研修所で山中の径(こみち)を散策しながら発せられた伊與田学監のおことばで、住友生命の新井正明先生から「伊與田さんは神のお告げを聴く人だ」と評された人であるだけに、恭しく拝聴したのを昨日のことのように思い出す。

 昭和五十八年十二月十三日、大阪住友病院で大師安岡正篤先生が、忽焉として幽明を異にされ、道人なべて羅針を見失なったような虚脱感に襲われたものだった。師父と仰がれ、形影相従って来られた伊與田先生の失念は筆舌に尽せぬもので、慎んで一年の心喪に服された。この時の心境を孔子の死後六年の喪に服した弟子の子貢に準えてよく話されたものであった。

そんなまだ悲嘆の拭い切れぬ時、新井先生が関西師友協会の継続を決意され、その決心を促されたのが論語で、冉求が孔子から「力足らざる者は中道にして廃す。今女は畫れり。」のところに觸発されて意を決した。と言われたが、伊與田先生これ又その言に觸発されて漸く再起に目覚められたのであった。

熟考の末に出された結論は「よーし、先生亡き後は、み教えが凝縮されその基たる論語によって世直しを計ろう」と決心されたのだった。決れば即実践とばかり、先ず手がけられたのが、論語の全漢字にふりがなを施した「仮名論語」の淨書であり、作成であった。

その頃の世相を振り返って見ると、戦後四十年間、占領政策と相俟ってイデオロギー偏向の歪められた教育は、東洋の古典を極端に軽視、無視、いや蔑視され、漢文教課はほとんど除外された状態で、論語なんて古の遺物で読み辛く内容も難解で、こんな書物は特定の学者か政治家ぐらいが読むもの、と一般に見なされ、忘れ去られていた時分だった。

それに日教組を先頭にして聖職たる自覚を捨て、サラリーマン根性になり下った教育屋さんたちの歪んだ教育による悪い面の効果が社会のあらゆる所に顕著に噴出しはじめていた。苟くも社会の公僕であり、国民に聖職者として範を示すべき職務にある警察官や、教師までが不祥事を起し、破廉恥な犯罪を犯すのが報導されはじめたのであった。

これは明らかに日本人の精神構造に異状を来している。教育の荒廃によることが判然と見てとれる。家庭は核家族化し、若者は放縦を貪り、自己中心的で利己に走り、他人の迷惑は意に介せず、徒らに権利を主張し、孝の精神は軽んぜられる。

安岡先生の生前鳴らし続けられた警鐘が全て的中しはじめ、巷では、外国人から「物で栄えて心で滅びるのではないか」と囁かれ、「日本人はデモクラシーを一字間違えてデモクレージーになり下っている」と揶揄されるに至った。

 こんな時代背景を深憂し、なんとかせねばならぬ、ということで、『論語普及会』を立ち上げることになったのであった。会結成の主目的は、この日本人が忘れかけている論語を、意味内容は別にして、とに角読んでもらおう、そのために仮名論語を一人でも多くの人に知ってもらうことだ。これならば三歳児から百歳の老人に至るまで、老若男女を問わず、漢文を知らぬ人でも容易に読むことが出来る。

読んでおればそこは古来より日本人の生きざまの羅針盤となってきた書物、日常何げなく使っている言葉が散りばめられていることに必ず気付く、それに有難いことに論語は語調が詩的でリズミカルに編まれており、読んでいて非常に心地よい、子供などはこの心地よさに引かれ喜んで素読をする。

なるほど昔の人が幼児のころから素読を重視して習わせたわけが良く解る。『三ツ児の魂百まで』で、小さい時に覚えたことは生涯皮膚の如くに肌身に纏うて墓場までこの宝を身に着けたまま持って行ける。それに『読書百遍意自ずから通ず』で自然と意味は読むうちに理解されるものである。

現に今幼稚園児に素読を教えているが、年中から始めて年長になる頃には、断片的な単語の意味を解している児が見受けられる。一切解説はしないのにである。又小さい頃に暗唱した子が高校生ぐらいになってその意味を学びだすと、理解力は暗唱していない子に比べ抜群に早い。

とに角初学は素読からである。その素読には ゛仮名論語゛ ほど便利で有難いものは無い。三年ほど前から始まった神戸のある親子論語教室では、全章素読も三巡目に入っているが、一巡終わった時に皆勤で出席した子には賞状を渡し「貴方は、今の大人たちでもほとんど読んだことの無い書物を立派に読破したのだ、私は論語を全部読んだんだと胸を張ってよろしい」と餞のことばを贈ったのを思い出す。このように仮名論語の効用は計り知れないものがある。

そこで当会ではこの仮名論語の百万部頒布を目指して発会したのである。もしこの数が達成出来た暁には、必ずや世を変える力となっているだろうと。いつしか村の片隅から、街の露地裏から、浜辺の漁村からと、日本の津々浦々から素読の声が聞こえて来る日を夢見て。

しかしこのような意義を一般に周知してもらうことは大へん困難でありなかなか目的を達するまでには前途多難なるものがある。時にはこの夢も幻に終るのか、と思える時もあった。世は益々紊乱の度を加え、凶悪犯罪は激増し、世界一治安を誇っていたわが国が、今や社会不安を覚えるほど悪化している。

政治家、企業家のモラルの低下、青少年の軟弱化は進み、残念乍ら我等の描く夢に逆行している感がする。匹夫も責あり。大いに反省し、草莽崛起すべき時である。

只決して負の面ばかりではない。ここ数年来社会の風潮も大きく易って来ている。人間社会は不思議なもので穢国悪世もここまで進むと、眠っていた良心が一方で目覚めて来るのか、最近俄然論語への関心が高まっている。書店を覗いても論語の諸説本がやたら目につく。又総理大臣の演説中に論語が多用されるようになった。

普及会事務所への問い合わせも多くなっている。何より大きな変化は、論語を主体にした塾や勉強会が各所に開設されていることだ。かねて安岡先生が提唱されて止まなかった『郷学』の作興現象である。自分の日常生活圏内で論語が学べるのである。それに事務所への問い合わせにはまだまだ多くの開講開塾希望者が居る。

ひょっとすると徳川時代のように、それこそ全国津々浦々に塾の点在を見る時が来るかも知れない。そうなれば仮名論語百万部どころか一千万部も夢でない。とに角忙しくなって来た。伊與田先生のことばはやっぱり神のお告げなのか。

老子は『大道廃れて仁義有り。国家昏乱して忠臣あり』と言っているが、確かにちょっとしたブーメラン現象が起きている。『論語の友』創刊号(昭和六十二年九月七日)に伊與田先生は「機を逃さぬこと」と述べておられるが正に兆を感じる昨今である。二十年にして中変すである。

ともあれこの微々たる会がここまで続けて来られた意義は大きい。これ一重に国を憂うる心厚く、真剣な求道の士の集りたる会員の方々の並々ならぬ共銘によるご献身と御協援の賜である。ここに改めて深く感謝の意を表する次第である。

そして二十年の節目の年の意義を深く心に刻み、孔子一貫の道を歩み続け、混迷の一途を辿る現実社会にあって、泥中に咲く蓮華のごとく、又急流の砥柱たるべく、日本浄化の尖兵となり、『文王無しと雖も猶興る』の気概もて三十年の大変に向け邁進せねばならぬ。

皆さん、手を携え、共に進もうではありませんか。

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