今月のことば (2007年4月)
子曰わく、學びて時に之を習う、亦説ばしからずや(學而第一) (爲政第二)
『習』の字は、巣で孵った雛鳥が、親鳥の羽を動かして自由に飛び交う姿を見て、自分も飛ぼうとして羽を動かす真似をくり返す姿を現しているのだそうだ。

昨年亡くなられた白川静先生によると、羽の下の白は日であり、祝祷の文を入れる祭器とし、祭器の上を羽で摺って呪能を刺激するためにその行為をくり返す意を表わす字と言っておられる。いずれにしても羽を始終動かす動作を現わす字だそうだ。


又『誨』という字があるが、之はおしう、おしえさとすと訓読みする。言十毎で、なるほど毎度毎度毎回毎回、常に言いさとすことが教であるとの意のようで、となるとこれ又倦むことなく身に染み着くまで根気よく繰り返すことが教育の要諦たるを意味している字と受けとれる。

 T幼稚園の園長から、論語の素読とともに『教育勅語』を教えてやってほしいと頼まれたので、その日は朝早く出掛け、朝礼の場で奉唱させるのだが、なんと三.四回目で年長組の児らは覚えてしまい、十回目位で全園児が覚えたのには舌を巻いた。

担任の先生方が時を見て教えておられるのでもあろうが、それにしてもこの時期の児らの吸収力は凄まじい。「こんなものはまだ難かしいから」などと教えるのは、大人の思い上りであり、子供に対して失礼千万なことだ。漢字を極端に減らして教える小学校の国語教育など早急に改善しなければ、学力低下は益々進むばかりだ。

園児と廊下ですれ違うと「教育勅語」とか「朕おもうに」とか「父母にこうに」と私の顔を見ながら口遊む。授業が始まると「教育勅語 ―」と叫ぶ、つまり奉唱させろとねだるのである。この年令期の特徴として、一旦自分の覚えたものは語るも聞くも反復するのが大好きなのだ。

例えば夜寝しなに絵本を読んでから寝かせる癖が着くと、大抵の子は前読んで知っている物語りを読めとねだる。親が読み間違おうものなら「違う」と指摘するぐらい覚えてしまう。こうして習熟し、絵も字も物語りも身に染み着いてしまうものである。

 先月号で筆者が少年の頃教わった『神代の歴史』が、今も佛前で先祖へ手を合わせる毎に神々の映像が浮かび来ると書いたが、このことである。美智子皇后も『読書の思い出』でこのことを話しておられた。こうなると人間の一生は幼児期で決ってしまうと言っても過言でない。この時期に如何に善きもの、正しいもの、愛情に満ちたものを、時期を逸することなく與え、蓄積させるかで決るのである。

我等の大師、安岡先生は五.六歳頃からお父さんに四書の素読を習われたそうで、小学一年に入学すると「ハト」や「マメ」などと教えられ、つまらなくて欠伸が出た、と仰っておられる。恩師伊與田先生の幼少時も、御母堂が亡くなられた悲しみをまぎらわすのに伯父さまから論語の素読を教わられた。

 吉田松陰は十一歳で藩主に御進講し、中江藤樹も十一歳で大學の「天子より庶人に至るまで、壹に是れ皆身を修むるを以て本と爲す」の所を読んで涕涙したではないか。 これらの事蹟を見ても、人間の初學は幼児期こそキーポイントたるを知る。

 T幼稚園児達はベスト期に一ぱい善言正言を習得し、一生涯この宝を纏い人生を送ることになる。なんと幸せな児らであろう。

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