今月のことば (2006年11月)
子路政を問う。子曰わく、之に先んじ、之を勞う。益を請う。曰わく、倦むこと無かれ。 (子路第十三)
昭和五十年から始まった「台北孔子祭参列巡拝旅行」も今年で三十二回を数える。振り返ってこれを継続することの難しさに屡々遭遇したものである。時には参加者が無く、ある東京の有志が単身渡台して責を果たしてくれたこともあった。それにしてもその都度ご多忙の中を御枉駕賜った孔徳成先生をはじめ、王宇清・楊喜松・戴文郎各先生方他有縁の先生方には只々感謝の至りであり、更めて感慨無量なるを覚える。これも安岡大師のご遺徳有ってのご縁であり、それだけになんとしても続行せねばと、伊與田学監以下固い決意の本で今日まで継続できたのである。

この行事を立案したのは、当時中国では「批林批孔」の嵐が吹き荒れ、曲阜の聖廟なども破壊された。そしてやがて日本は田中内閣が誕生し、中国側の条件を呑み、台湾の中華民国と国交を断絶し、電撃的に日中国交を締結してしまった時だった。この理不尽な政府の態度に怒りと失望を覚え、それならば民間使節として、中国の思想的主柱である大聖孔子を祭る台北の釋奠に参列し、変わらぬ心の交流を深めようではないか、との願いから始まったのである。当時はまだ安岡先生と親交のあった民国の要人も多数居られ、共に世を憂え、世界を憂え、肝胆相照し合ったものだった。あれから三十二年、世界は大きく変貌し、中国の発展は目覚ましく、経済面では日本と切っても切れぬ間柄となった。なにより驚くのは、あれほど紅衛兵によって孔子の廟や墓を破壊し、孔子の子孫たちを貶しめ、批孔を叫んでいたのが、今や孔子の思想で健全な国家の建設を目指し、小学生に論語を教え、あちこちで素読が聞かれる有様、孔子の故里曲阜では十数年前訪れた時とはまるで違い、大きく発展し近代化が進み、街中孔子孔子で湧きたっている感がする。百八十度の大転換である。至誠息むこと無し。真理は永遠なりを実感する。幾ばくかの時代の流れに惑わされ、右顧左眄することの愚かしさを教えてくれている。

さて、そんな時代の流れを横目で眺めつつ台北孔子祭への参列を倦むことなく続けられ、今年も有志で参列して来た。昨年は体調が勝れずご欠席された孔徳成先生が我々の招宴にお出まし下さり、久々にお会いできたことに無上の喜びを覚えた。

今年は孔家にとって一大慶事が有った。本紙で既報の如く、一月一日に第八十代の御裔孫の『佑仁』さまのご誕生である。一方日本では国民がご案じ申し上げていた皇室のお世嗣ぎ問題だが、九月六日秋篠宮妃殿下に全国民待望の親王様がお生まれになった。皇位継承第三位であられるとのこと第百二十七代または百二十八代にお成りになるのであろう。孔子家は孔子生誕以来二千五百五十七年―日本の皇室は神武天皇御即位以来二千六百六十六年、世界でも類例を見ないであろう。ご両家の永々たるご継嗣がずっと男系で保たれたことは洵にお目出度く、孔徳成先生と共に両家の御慶事をお祝いし合う栄を賜ったことは望外の喜びで、これも倦むこと無き継続の賜。孔家の御裔孫『佑仁』様、佑はたすく、佑啓として教えみちびき佑けるなどの意を含み、孔家に相応しい名と拝承した。

一方皇室は九月十二日の命名の儀において『悠仁』親王と命名された。申すまでも無く、悠々、悠久、悠遠など「寶祚の隆えまさんこと當に天壤と窮りなかるべし」との御神勅のご精神に則り、これまで悠久の歴史を誇る我が国の、これからも窮りなき悠遠なる皇国を祈って命名されたように思えてならない。しかも下はどちらも仁であり、音読みすればどちらも『ゆうじん』となる。御両孫のみ名を合わせると、仁の精神で世を佑け、教えみちびき、人類に悠久の繁栄を齎すことを示唆されているように思える。また中庸に「悠久は物を成す」とある。いずれも今後の世界を指向しておるようである。

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