今月のことば (2006年1月)
子曰く、故きを温ねて新しきを知る。以って師と爲るべし。(爲政第二)
《日本本来の歴史教育を取り戻せ》

毎年年の始めに浮かびくる論語の章句がこれである。 故とは樹木でいえば根ッ子の部分をさし、知新は地上の幹や枝葉花実に当る。根ッ子が太く逞ましければその分地上も大きく育つ。これを人間に当て嵌めると、過去・歴史が根ッ子であり、現実から未来が地上と云えよう。虚子の句に『去年今年貫く棒の如きもの』と云うのがあるが、これを日本の国体でいえば『神代より貫く棒の如き国』となろう。一系の天子を大宅に、そこから分かれたのが国民で小宅である。逆に遡れば国民はみな天皇に至る。こんな国が他国にあろうか。

しかるに六十年前、敗戦による占領政策の一環として、教育の大改革が行われ、そこへ左翼や進歩的文化人と称する輩が便乗し、世界に誇る悠久の歴史を学校教育の場から抹殺してしまった。最近漸くこのことに危機感を抱いた有識者によって『新しい歴史教科書』中学校用が作製されたが、過去二回に亘る採択選定ではほとんど全国的に採用されていない。これは教師も教育委員会の委員も戦後生れであり、根ッ子である国史に如何に無関心であるかを物語っている。この間岡山の閑谷学校を訪れた時、すこし奥に和気神社が有るので帰りに寄り道してお参りしたが、同行の人達に和気清麿公を知る者はほとんど居ないようであった。また先日神戸の湊川神社社頭で、三人のご婦人の参拝者が「ここは何の神さんが祀られているんやろう」「さあ」と言い交しているので、差し出がましく思えたが見逃してはおれず「楠木正成公をお祭りしているのですよ」と説明した。すると「へえー、その神さんは何の神さんですか」と来た。唖然たる思いがしたが、ここぞとばかりひとくさり楠公を説いておいた。今や今上天皇が第百二十五代であらせられることも、日本には皇紀と云うものがあることさえほとんどが知らない。 

今憲法や教育基本法の改正論議が為されているが、「愛国」の一語を挿入するかしないかで百家争鳴の有りさまである。果たしてこんなことで日本の国体、伝統に基づいたまともな法が作れるであろうか。洵に心もとない限りである。六十年間に亘り引きずって来た占領政策なるものが、いかに恐しく巧妙なものであるか、改めて思い知らされる。

しかし、世の変遷、その機微たるや微妙なもので、昨年来の中国・韓国の反日感情が高まり、靖国神社への批判が高まるにつれて、今まで平和に酔い痴れ、能天気に過ごしてきた日本人のナショナリズムを、却って喚気させたようだ。北朝鮮による拉致問題、中国の東支那海における石油ガス田の採掘、中国原子力潜水艦の領海侵犯、韓国の竹島問題等々、眠れる日本人を覚醒するに充分である。やっと自分の国というものに目が向いて来たような気がする。その顕著な現われが昨年の総選挙の結果であったように思える。

遅きに失した感もあるが、何分六十年間国の歴史を歪められたまま今日に至ったのである。こんな時こそ本に返って本を努めねばならぬ。故きを ね、我が国体の淵源を知り、孔子も理想として夢に描いていた萬世に亘って一君萬民の、世界に比類なき国に生を受けた喜びと誇りと自信を取り戻し、新しい理想国家を建設し、以て世界の範となろうではないか。その日本再生の元年が今年であるように思えてならない。

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